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2020/04/08

江戸後期輸出漆器概論その5(仮)

Introduction of Export Lacquer in late Edo Period Part 5 (Draft)

 

この時代、プラークに関してはかなりの数が残っているので、ある程度

の研究は進んでいるが、それ以外については基準作品があまりにも

少なく、その他にどんな輸出漆器がが作られていたとはっきり言える

ものは少ない。そんな中に、ある程度時代を特定することが出来る

コレクションが存在する。

 


オランダ東インド会社の業務は、オランダが倒れた1795年以降滞り、

傀儡政府のフランスとオランダの最後の総督ウィレム5世がイギリスに

亡命した経緯からどっちつかずの状態に。日本からの注文品の調達も

滞り、船も来ないので本国との連絡もつかない。

 


そもそも、その頃のバタヴィアは閑古鳥が鳴いていた港町。相変わ

らず、スパイスの輸出は行われていたもの量は依然とあまり変わらず

だが、広東から爆発的に増えた紅茶の輸出。その紅茶の鮮度を保つ為

に、バタヴィアに寄らずそのすぐ北にあるマラッカ海峡を越えて

ヨーロッパへ行ってしまうため、船さえ寄港しない。その頃、その

地域に大量に押し寄せていたのが一攫千金を狙った後発の新興国

アメリカの船舶。独立して間もないアメリカ、フランス革命後の

英仏の戦いでは中立の立場をとっていたので、ヨーロッパのバタバタ

にあまり影響を受けなかった唯一の国でもあった。そんな中で、

オランダ東インド会社が、1797年から苦肉の策として始たのが、

借り上げの船を、自社の船とし、出島に送りこむという事だった。

 


その後、10年に渡り10隻の船が仮オランダ船としてオランダの旗を

掲げて出島に送り込まれた。そのうちの8隻がアメリカ船。

マサチューセッツ州のセーラム関係の2隻の積荷が、いまだにかの地

ピーボディ・エセックス博物館に所蔵される輸出漆器群である。

 


1799年のフランクリン号(その時ボストンの船籍、しかし船長の

デブローはセーラムの人)、1801年のマーガレット号

(セーラム船籍)。1799年にセーラムで設立された

東インド海員協会の憲章の規定により、会員が「天然および人工物

の珍品」の収集を義務付けられた為、その会員であり船長だった

デブロー船長、ダービー船長が、寄贈したものが残されている。

その中には、お目当ての輸出漆器はほぼ含まれないのだが、

航海日誌やその航海の書類、その後親族からの寄贈の輸出漆器など

で、その航海で持ち帰られた物として判明しているものが多く、

出島からどんな輸出漆器が送られていたのかが初めて判る一級資料

となっている。

 


その当時のアメリカ東海岸、広東帰りの紅茶とアヘンを売りさば

いた新興の成金が生まれてきた時代。全ての船乗りがそこを目指し

はしたが、リスクと利益を考慮すると、結局辿り着いたのはその

2割程度であったようだ。だが、彼らの持ち帰った清の陶磁器、

漆器やシルクはもてはやされ、誰もが欲しがる一品となった。

 


何故、多くのアメリカ船がアジアを目指したのに同郷彼ら2人の

率いる船が、日本に行けたのかと言う疑問が湧く。ここで、

鍵となったのがフリーメイソンである。両船長ともセーラムの

同じロッジの会員であった。フリーメイソンの会員であるならば、

行った先々の港で、まずすることは、現地のロッジに顔を出す事。

どんな国のロッジであれ、フリーメイソンの会員の証明書を

見せれば、自分のうちにいるような好待遇を異国の地で得られる。

この頃は、その心の安心を得るために、航海に出る前に、慌てて

フリーメイソンの会員になる者が多くあったと言う。もちろん、

ロッジは寛ぎの場だけではなく、情報の交換、人との出会い、

仕事の求人などの社交的な場でもあったのだ。さらに、

デブロー船長の時も、ダービー船長の時も、その時の

バタヴィアの総督はフリーメイソンの会員である

(オーフェルストラーテン、シーベルフ)。かの地のロッジ

で会い、その仕事の事を知ったのだろうか。

 


デブロー船長の会計帳に見られる、ティー・トレイや

カード・テーブル。青貝細工物と蒔絵仕上げ物が混ざる。単価

の安い青貝細工の方へ注文が偏っていったので、忘れがちだが、

江戸の末期まで青貝細工物と蒔絵物は並行して作られていた。

その中で、特質すべきは、西洋の形を持った大型の家具類である。

蒔絵プラーク後に、どのように輸出漆器が続いていったのか知る

鍵はあまり多くないが、ササヤの銘と共に入る1792年から

デブロー船長の出島行の1799年までの間に何が起こったのだろ

うか。

1_20200408190301

その時代5年余りを商館長として勤めたのがヘンミ―である。

江戸参府から長崎に帰る途中で亡くなくなり、静岡県の掛川に

お墓がある事でも有名である。ヒ素中毒だったとの記述もあり、

その死の真相は謎に包まれている。1797年長崎派の絵師石崎融思

が描いた「蛮館図」。出島でのある晩餐の様子が描かれている。

参加者は、紅く塗られた、籐のようなもので背ずりを編まれた

アームチェアに座っている。恐らく、中国製の漆塗りの椅子。

畳の上なのを除けば、何らヨーロッパの晩餐と変わることがない。

2_20200408190301

後年、融思とその弟子川原慶賀によって描かれたブロンコフ商館長

とその家族図。ここで気付くのは、家具が時代に合わせて

アップデートされているという事。1798年に出島の商館が火事で

焼失してるので、その後の再建時に購入したものか。商館長の

奥方が座るソファは見るからに、フランス・アンピール様式の物、

椅子は、何処製とははっきりしないが、イギリスの

リージェンシー様式、フランスのアンピール様式の流れを汲むもの

に間違いない。

 

 
ここである疑問がふと浮かぶ。実は、家具はもともとそこにあった

ものではないかという事。蒔絵を施された椅子も、出島の

オランダ商館で使われていた椅子が、もともと中国製だったから。

ナイフ・ボックスも、日々使っていたものだった。膝机、その後の

セクレティア、アメリカ船の持ち帰ったカード・テーブルや

ナイフ・アーン。形として言えば、現物がそこにないと、模倣

出来ないぐらい、模倣されている。ヨーロッパのモデルと並べて

みても、姿かたちは同じ、違うのは装飾だけ。そのものが、どう

使うかわからなくても、日本の木工の技術力で作ることが出来た。

そうやって、作られたのが西洋の形をした輸出漆器。それが、

90年代に起こったことではないかと。

 


国がなくなり、船は来なくなったとしても何とか新しい商品を産み

出す。1792年にインドの赴任からバタヴィアに戻ったティツィング

が町の惨状を見て嘆いている。紅茶貿易では、イギリスにやられ

まくり、清のジャンク船も細々としか来ない中で、この

オランダ東インド会社の唯一の特権、日本との貿易を最大限に

生かす方法ないか。脇荷貿易で何かをと言うところから始まったのが

蒔絵プラークであり、大型の輸出漆器の製作のスタートという

仮説は成り立つだろうか。

 


思い出すのは、何故オランダ東インド会社が、公式に日本漆器の

輸出を辞めてしまったか。清製に比べて、高かったこと。それ故に、

わざわざヨーロッパまで、リスクを冒して持って帰っても、その

売り上げで利益が少なかった事による。時代は変われども、日本

での漆器の製作は高かったに違いない。会社自体が落ち目になって

いっていた90年代、蒔絵プラークの製作のような大きなプロジェクト、

どうやってお金を賄ったかと言う疑問が湧く。

 


1790年には、来日出来る船が一隻に減らされ、使える額も大きく

なかった。恐らく、ここで企てられたのが薩摩との抜け荷貿易で

はないかと思う。1992年から商館長を務めたヘンミ―と

薩摩藩藩主島津重豪。最終的には、ヘンミ―の謎の死で終わって

いるが、彼の死後には、ドゥーフの証言にあるように多大な借金が

残されていた。禁輸品の密輸を薩摩藩の為にすることによって得る

お金を担保にし、長崎商人にもオランダ東インド会社から借りた

お金を、蒔絵プラークの製作の代金にしていたとするならば、

全てがうまく説明出来そうである。

3_20200408190301

何故か、ある一時期しか製作されなかった楕円の蒔絵プラーク。

神戸市立博物館に残るように一個づつ桐箱に入れられ、輸出

されたのであろう。安い値ではなかったはずである。

 

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