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2020/04/04

江戸後期輸出漆器概論その3(仮)

Introduction of Export Lacquer in late Edo Period Part 3 (Draft)

 

戦記物に関しては、注文した人間が特定できるような手掛かりが

残されているものはない、が、風景画を描いた横長方形タイプには

いくつかの手掛かりが散見する。

3_20200404131601

商館長であったファン・レーデの銘が入ったプラークや

ライティング・スロープと呼ばれるポータブルの膝机等いくつかが

存在する。これは、オランダ東インド会社の船がバタヴィアの港から

出航する画を描いた小さめの横長方形タイプのプラーク。その裏側に

「DE REEDE VAN BATAVIA」の文字と家の紋章が入れられている。

どういう関わりであれ、彼がこの蒔絵プラークの製作に絡んでいる

ことは間違いない。

2_20200404131601

一方、商館付きの医師、ストゥッツェル。ロシアの科学アカデミー

に残された彼の日記によれば、彼がサンクトペテルブルクの風景画や

ルードヴィッヒ15世騎馬像などの版画の原画を元に蒔絵プラークを

作らせた最初の人物となっている。その中で彼は海戦図にも言及し

ており、ストゥッツェルが出島に在任していた年、ファン・レーデ

の2期目の商館長時代である1787から88年にかけて1781年の2つの

戦記物を含む横長方形のタイプが製作され始めた可能性が高い。

(ちなみに彼は、スウェーデン人である。)

 


と同時に、初期のポートレイトのプラーク長方形だったことを考え

ると、その後のファン・レーデの2期目は形として2年続くので、

バタヴィアに帰ったストゥッツェルが、そのプラークを見せ

ティツィングらと相談し、楕円蒔絵プラークの為の原図を、翌年の便

に載せファン・レーデが発注したのではないだろうか。1793年、

ファン・レーデが父親への手紙でプロイセンのフリードリヒ大王を

描いた2つのプラークに言及しているように、大量生産が始まったのは、

ファン・レーデが帰国したもっともっとあとの事かもしれない。

 


国としても低調、会社としても右肩下がりで、ある程度の私貿易は

許されていた18世紀後半、私貿易というよりは、オランダ人、清人

による密貿易はかなり横行していたようである。しかし、1772年の

ブルグ号の遭難以来、商館長、船長の禁制品の持ち込みがばれ、

幕府の規制が厳しくなった(密貿易禁止令)。

 


80年代には、日本は浅間山の噴火(1783年)、続く、天明の大飢饉楕、

オランダは、1780年からの第四次英蘭戦争による影響。1784年には、

イギリス政府の紅茶への関税引き下げ(119%から12.5%へ)による

ヨーロッパでのオランダ東インド会社の紅茶の需要の低下。

蒔絵プラークは、そういう意味では商業的な大量生産品のように見え

るのは、そういう目的を持ってつくられたためではないだろうか。実際、

1795年にはオランダはフランス軍に占領され、1799年には会社解散

という憂き目にあう。

 


ただ、この新しく始まった輸出漆器製作、ストゥッツェルの赴任した時に、

突然始まったとは言い切れない。彼らが、出島に行く以前に4年の歳月

過ごしたフリーメイソンであるティツィング。そもそも漆器製作は、

250年前の南蛮漆器がキリスト教の布教の道具として注文されたよう

に、フリーメイソンの儀式の為の道具として、注文され作り始められた

される。ティツィングは、第四次英蘭戦争の際船が来なかった時、

余暇の時間に出島に保管されていた東インド会社の資料を読んだという

(古くは1641年の物まで)。その際に、輸出漆器に関することを読ん

可能性は否定出来ない。実際、彼は1786年に友人に宛てた手紙の

で、漆器の配達のアレンジをお願いしている。(ただ、この漆器群

国内向けか、輸出用か知る由はないが)

 


18世紀後半、オランダ東インド会社の2,3割の幹部社員が

フリーメイソンと言われ、1762年にアジアで最初のロッジ

(地方支部) がバタヴィアに作られて以来、多くのロッジがインド、

セイロン (現スリランカ) 、ジャワ(現インドネシア) 、マラッカ

(現マレーシア) 、そして日本に作られ、儀式の場所だけとしてでは

なく、情報交換や出会いの場所として重要な役割を果たしてきたこと

は、最近の研究で多く指摘されている。

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その儀式の為にティツィングが、あるいは、彼に頼まれたファン・レーデ

が、フリーメイソンのシンボルの入ったとレーシング・ボード

(フリーメイソンの儀式の道具として初めて注文されたものとされる)

を製作し、それをストゥッツェルが、出島赴任前に見たとしたならば、

彼が、原画を持ち込んで発注した経緯が理解出来る。しかし、残念な

ことに、その当時のティツィングの日誌などの記述には、漆器製作

依頼等の記述を見つけることは出来ていない。あくまで、プライベート

なことだからなのか。それ故に、ストゥッツェルの赴任時代にただ

偶発的始まった可能性も捨てきれないのではあるが。

 

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