« 江戸後期輸出漆器概論その1(仮) | トップページ | 江戸後期輸出漆器概論その3(仮) »

2020/04/02

江戸後期輸出漆器概論その2(仮)

Introduction of Export Lacquer in late Edo Period Part 2 (Draft)

1

18世紀も終わりに近づく頃、突然、新しいタイプの輸出漆器群が

現れる。俗に蒔絵プラークと呼ばれる銅板に蒔絵を施した物。

日高薫氏が指摘している通り、仕掛け人は、ティツィング、

ファン・レーデ、ストゥッツェルの3人が、関与してるとみて間違

いないと思われる。

 

ティツィングは、1779年から、計4期約4年に渡り出島のオランダ

商館の商館長を務めている。啓蒙思想の持ち主。日本語に堪能で、

滞在中に多くの日本人と交友関係を結んでいる。その当時、

ヨーロッパで一番の日本通。日本に来た初めてのフリーメイソンの会員

としても知られている。ファン・レーデは、80年代の商館長(彼も

フリーメイソン会員)、ストゥッツェルは、その時の商館付きの医師で

あった。

 

ティツィングがどの程度、この蒔絵プラークに絡んでいたかは、甚だ謎

だが、あとの2人が実行部隊、そして、その後ろにフリーメイソンの

巨大なネットワークのサポートというのが、この漆器群が作られ始めた

背景だと考えられる。

 


始まりは、恐らく、ティツィングが、最後の出島商館長の赴任期間から

帰国した1784年後からスタートするのではないか。翌年、彼は、

インドのフーグリーのオランダ領の総督に任命。同じ東インドにある

イギリス東インド会社の商館のあったコルコタ(旧カルカッタ)の

ロッジ(地方支部)での、フリーメイソンにとっての大事な集まり等の

参加リストに彼の名前が見えるように、フリーメイソンのネットワーク

を通じて各国の商人、役人、軍人、そして新しくフリーメイソンに入会

したその地元の王族や名士との関係を築いていった。

 


ヨーロッパでは、イギリスがアメリカの独立を承認したパリ条約が

1783年に締結されたが、オランダとイギリス間の戦争は翌84年まで

続いている。つまり、国としては敵関係ではあったわけだが、

フリーメイソンの会員同士の個人の友愛関係は保たれていたようだ。

92年まで、その地で総督を続けたティツィングは、かなり多くの交友

関係を持っていたと推測出来る。実際、インドにいた1789年に彼が

その当時の商館長ロムベルヒに、バタヴィアのロッジ「La Vertueuse」

を描いた蒔絵プラーク(?)を注文している(現存してかは不明)。

 


その当時の、ヨーロッパの貴族階級で流行していたポートレイトの

プラーク。古くは、フランスのリモージュ製の物やイギリスの

ウェッジウッドのブラックバサルトシリーズの楕円のポートレイトが

存在するが、一番、日本の蒔絵プラークの原型になったのではないかと

思われるのが、スコットランド人であるジェームス・タッシーの発明した

タッシー・キャストと呼ばれる方法で作られたミニチュアの

ポートレイト・メダリオン群である。ローマの皇帝シリーズやその当時の

著名人などが数多く作られている(約20000点)。白い琺瑯で作られて

いる為、しばしば黒い背景が使われていてるのが、蒔絵プラークに類似

する。

2

蒔絵プラーク(中には青貝細工と両技法が使われているものもあるが、

便宜上こう呼ぶことにする)には、楕円型のポートレイトの他に、四角い、

主に風景画や戦記の描かれたシリーズが存在する。

 


18世紀、清では、ヨーロッパへの輸出品の中で人気であった

リバース・ペインティングと呼ばれる一群の作品がある。ガラスの裏側

から左右逆様に絵を描きその上に鏡の為のコーティングを施したもの。

人物画、風景画、風俗画多く存在し、額縁に収められ、しばしば上側に

壁掛け用のリングがつけられていることが多い。

 


形式的には、この形が日本に持ち込まれたと考えるのが妥当ではない

と思われる。ガラスの代わりに銅板を使い、そこへ蒔絵で絵を描か

せる。ただ、描かれた主題を見ると、楕円型のポートレイトとは違い、

一般大衆向けではなく個人の注文、または誰か特定の人、団体への

ギフトという感じが強い。

 


どうも戦記物に関しては、作られたのが2つの時代に分けられようだ。

一番最初と思われるのは、横長方形のタイプで描かれている1781年に

あった2つの戦い。どちらもアメリカ独立戦争の流れを汲んだ

第四次英蘭戦争から選ばれている。損害は被ったがオランダ海軍が

イギリス海軍と唯一引き分けたドッガー・バンクの海戦。ポルトガル沖

で行われたセント・メアリー岬沖の海戦。ただしこちらはオランダ海軍

が負けている。

 

そもそもこの第四次英蘭戦争、オランダ軍は散々だった戦争で、

コロマンデル海岸を統括していた主要都市ナーガパッティナムをイギリス

割譲させられている。さらに、英国海軍によって、

オランダ東インド会社の船が拿捕されるという事が多発。結局,1782年

には船が出島に送れていない。

 

何故、その2つが選ばれたのか。オランダ人としてみれば、かなり

不可思議な選択と言える。それ故に、注文主、または贈呈先は、

オランダ人よりはイギリス人と考えるのが妥当ではないかとも思われる

が、オランダ人以外の偶発的な選択というのも否めない(後述)。

 


あとの物は、いずれもフランス革命後の余波でオランダが倒れた後の

物。そして、いずれの戦いも、オランダ(もしくはバタヴィア共和国)

の負け戦いを描いている、というのが面白い。1797年以降の戦い

が描かれていて製作年は全く同じでないものの前2点とは、年代的に

大きく異なる。

 


あとの時代の一つ目は縦長方形タイプ。この2点は、明らかにフランスの

ナポレオン・ボナパルト将軍、ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍

戦勝を称える物。その本人のポートレイト共に戦記が描かれている。

フランス人の注文か、贈り物なのには間違いない。

3

そして、もう一つはフランス革命後のフランス第一共和政時代の様式の

セクレティアと呼ばれる家具の装飾に使われているものが2点存在

する。モチーフは共にイギリス軍が、バタヴィア共和国軍に勝利した

戦い。こうなってくると、誰が何のために注文したかは、はなはだ定か

ではなくなってくる。そうすると、誰かへのギフトとして作られたと

考えた方がしっくりするだろうか。

 


これは、オランダのアムステルダム国立美術館の所蔵する物。2枚扉の

一番上、真ん中の部分は、フォールと呼ばれ手前に倒れ、書き物天板

なる。ある短い期間にしか作られていない形の家具なのでおおよそ

時代の特定にもなる。

 


上の扉に描かれた言葉はオランダ語。フランスの家具の形。描かれて

いるのはイギリスが勝った戦争。日本で装飾された蒔絵、青貝細工。

恐らくインド産であろう象牙も使われている(上部左右柱部分)。

その当時、アジアの植民地では、フランス語やポルトガル語が基本的に

共通言語、プラス大概のヨーロッパ人はさらにいくつか喋るのが当たり前

の時代。そういう意味では、言語は注文主の特定などにはあまり役に

立たないかもしれない。

 

 

その3へ

« 江戸後期輸出漆器概論その1(仮) | トップページ | 江戸後期輸出漆器概論その3(仮) »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 江戸後期輸出漆器概論その1(仮) | トップページ | 江戸後期輸出漆器概論その3(仮) »

フォト

instagram

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ