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2020/04/18

江戸後期輸出漆器概論その7(仮)

Introduction of Export Lacquer in late Edo Period Part 7(Draft)

 

その後の、オランダ東インド会社、出島のオランダ商館は苦難が続く。

商館長ヘンミ―の謎の死、その後に残された莫大な借金、出島の火事

による商館の消失。再建費は商館持ちだった。ただ、興味深いのは、

火事の際、沖の番所に避難した紅毛人は16名との記述がある。勿論、

インドネシア人の使用人なども含まれているようだから、石崎融思

「蛮館図」で描かれている17人(白人9人、インドネシア人8人)と

言うのは、出島の駐在員ほぼ全員という事になる。翌年に来た

アメリカ船フランクリン号で来日したのちの商館長ドゥーフ(その時

は書記として)がその現状を見て、一度バタヴィアに帰るのだが、

その理由として、「わずか21歳で日本のことを全く知らない私が、

14年間の日本滞在経験のある前任者の交代が務まるはずがない」と

述べている事だ。確かに、出島から公式に出れるのは、商館長、

副商館長、商館長付きの書記に医師ぐらいなのもで、それに年々頻繁

に交代する。しかし、商館員の中にはドゥーフも言っているように

14年間もいるような猛者も存在していて、手紙魔だったティツィング

は、出島赴任後もちょこちょこそのベテラン商館員に書簡を送ってい

るのが確認出来る。90年代の輸出漆器製作に関しては、そういう

商館員が繋ぎ役として関わっていたのではないかと想像するのだが。

 

2_20200418103901

その一年後に、正式に書記として再来日したドゥーフ。これが彼の

長い18年間の出島勤めの始まりとなる。この辺りから、フランスの

傀儡政府がバックであるバタヴィア共和国時代、続くホラント王国、

そしてフランスに併合され1815年にウィーン会議で、現在の

オランダの原型ネーデルラント連合王国が出来るまでのフランスの

影響が強かった時代、つまりドゥーフの在任時代中に、前述の

ボナパルト将軍、モロー将軍の縦長方形のプラーク、及び

セクレティアが作られたと考えられる。同じ形態で、ほぼ同じ

サイズで、川原慶賀が描いたドゥーフのポートレイトが漆塗りの

額に入ったものが存在する。

 


1801年頃には、さすがのティツィングも、出島にはもう知って

いる人間はいないと結論づけ書簡を送るのを辞めている。

ファン・レーデも、翌年亡くなり、オランダ東インド会社を辞め

てしまったストゥッツェルは、どちらかと言うと

イギリス東インド会社との付き合いが深いようで、最初の輸出漆器

の製作に係ってであろう3人も、ベテラン商館員もほぼいなくなっ

た中で、フリーメイソンであったドゥーフが続けていく形になった

ようである。その長い滞在期間に新しい取引先、青貝屋(伏彩色の

青貝細工の始まりか)、の開拓や分かり易いフリーメイソンの

シンボルを使った箱など、輸出漆器の第2期を開いたと思われる。

1_20200418103901

1797年発行の「An authentic key to the door of free-masonry」

の挿図。この本が、出島に持ち込まれ、このシンボルがかなり繰り返

して、輸出漆器に使われるようになった。また、ドゥーフは、1804年

には不定期ではあるが、出島にロッジを開設する許可を与えられてい

た。現存する、フリーメイソンのシンボルが描かれた多くの小箱はこ

の時期以降に作られたと考えられる。

 

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